写真って大っ嫌い。

写真って、昔大っ嫌いだったんですよね。

 

思春期特有の自分嫌い(あれ?私だけかな?)

 

自己卑下みたいな、劣等感のような、

 

「俺なんて、生まれてきてすいません」

 

そんなんに、悩んでいる時期に、形として何か現実のどうにもなんない、嫌いな

 

ルックスを突きつけられる、嫌な触手だ、なんて感じに思っていました。

 

旅行に行っても絶対、カメラなんて持っていかなかった。

 

風景や、景色なんて撮って後から見てそれの何が面白いの?

 

それよりも、帰宅後に、残っている記憶を辿った追憶の旅をしたほうが

 

よっぽど面白いし。

 

(当時なんて、スマフォないし、写真というものが、今ほどカジュアルじゃなく、

はい、チーズもきちんと構えて撮るもだった気がします)

 

そもそも、撮ってブツにしなきゃあいけないってことは、忘れちまうぐらいの軽いもの

 

なんでしょう?

 

だったら、忘れちまえば、と思っていました。

 

でもいつからか?そんな偏屈さもいつの間にか持ち合わさなくなりました。

 

記憶の風景BOXも、データー容量が多くなり、なかなか簡単に、引き出せなくなったか

 

らかな?タグつけないと思い出せないことって多くなった気がします。

 

写真を他人と共有することの楽しさも分かってくるようになったし。

 

なんだか、昔のアルバムってもっとすごく家族的な、個人的なものだったように思いま

 

す。シャアするなんて、それこそ、付き合ってる彼女が家に来た時ぐらいな、ものだっ

 

た気がします。

 

まあ、でも今でも、自分の写っている写真だけは、見るの嫌いですね。

 

ああ、働きたくねぇなぁー。

別に、休みが欲しいとかそんなんじゃなくて。

学生の時に、電車乗るといっつもそう思ってました。

なにせ、これから働きに行く人達の、顔、寝顔、表情っていったら、それはそれは、無なんですよ。

そんな風に思ってました。まあ、皆さん疲れてて、これから向かう職場での、いろんな人間関係や、上司からの、プレッシャー、仕事の〆切、追われて追われて、そんなものからの、一瞬の解放空間、時間みたいなものが、きっと、車内での顔にでているでしょうけど。

なんだ、これらの顔と人たちは?

能面か?

社会ってそんなに無なのか?

ああ、あんな風になりたくねぇ、って。

でも、今、きっとそんな顔してるだろうな?






好きなヒトが、消える瞬間って?

好意的な感情が消えたり、無くなったりする瞬間って、

 

人の中でのどんな化学反応が起こっているんでしょうか?

 

 

むかーし、むかーし、といっても

 

15-6年前ですかね。

 

やや距離の離れたところに住んでる女の子と付き合ってたことあったんですけど、

 

当時は、ネット社会でもなんでもなんでもないので、高額の電話料金と、手紙なんか

 

で、やりとりしてて、交通費の為に、必死でアルバイトしていまして。

 

で、なんか、だんだんしっくりこない感じになってきて、ある時、久しぶりに会いにい

 

くなんて約束してた日がきたんですけど。

 

ところが、前日、バイト先が、忙しく、厳しい店長にしごかれて、どうにも、疲れて動

 

く気がなくなってて....

 

 

朝起きて、

 

電話して「体調悪く、いけない」の連絡に、まあ、それそれは、キレられて。

 

さんざん楽しみで、いろいろ準備してたのに、何それ、みたいに言われ、

 

で、「もういい」、みたいに冷たく電話を切られて。

 

ああ、これは、ヤバイと思いそこから踏ん張って慌てて準備して女の子の部屋に、

 

4時間かな、かけて向かったんですけど。

 

玄関先について、扉あけた瞬間に、

 

彼女の中で、感情が消えてたんです。ポンっと。

 

なんだか、自分を他人を見てるみたいな眼で見てるんです。

 

怒っているとかでなく、完全に好意の感情が雲散霧消。

 

まあ、それはそれは、「はい次のカター」といった感じで、

 

テンポ良く、別れバナシに進んでいきました。

 

 

 

 

エンドロールに近いナレーションで、仲の良かった友達と、次第に疎遠になったいった

 

なんて言っていた部分があって、確かに、自分にも、似た記憶あるなと。

 

あれだけ、仲の良かった小学生の友人たちと、中学に上がってから、急に関係が遠く、

 

離れていった記憶があって、

 

それは、環境なのか?

 

一種の幼小期から、の通過儀礼なのか?

 

なんだか、分析できないような寂しさだけが、今でもずっと残っています。

 

 

 

どうにも故郷がいやで、無理やり仕事先見つけて、新しい土地でやり直そうって

 

思った時があって。

 

学生時代の友人が卒業後に、その土地に、住んでたので、無理やり、転がり込み

 

一時期同棲生活してて。

 

自分が、他人と生活するのって、これが初めてだったのかな?

 

最初の1-2ヶ月は、順調だったんですけど、徐々に仲悪くなってきて。

 

まあ、お互いのことが、細々いろいろ目について嫌いになってくんです。

 

なんで、トイレ、もっと綺麗に使わないんだ!

 

とか、

 

料理したら、フラにパンは、すぐ洗って反対に伏せろよ!

 

とか、

 

靴下干す時は、指先の方を、洗濯ばさみに挟めよ!

 

とか、

 

なんでしょうね?今、思うと、本当なんでもないんですよね。

 

でも、些細な瑣末なことが、お互いのいらいらの原因でした。

 

まあ、夜中に私が、電話してて、眠れない友人に激怒されて、その同棲生活は、終わり

 

ましたけど。

 

喧嘩の最中に、「お前は、いつも俺を下に見ていた!」

 

凹みましたね。そんなセリフ親友と思っていた人に言われて。

 

それから、10年ぐらいかな?まったく連絡とらない関係になってしまいまして。

 

まあ、おっさんになって和解したんですけど。

 

お互いあの時は、悪かったなんてな感じで。

 

 

いまだによくわからないし、ひたすら不思議で仕方ないんですけど。

 

人の好き、嫌いの感情ってどんだけ、気まぐれで、我儘なんでしょうか?

 

いっつもいっつも振り廻されているなんて思うのは、自分だけかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別れと涙。

別れに涙するのって忘れてました。

さみしくて、別れたあと後の、切なさと、孤独の闇に大きく包まれたような感覚。

はじめで一人暮らしした時に、引越し祝いで飲み会やって、バーっとみんなが帰った後の部屋に残ってる、その時の熱気と、食べ物とお酒の香りと、友達の残像、耳ののこっている会話の数々、みんなで、笑い合ってた声。

ああ、一人暮らしの楽しさは、こんなカタチのさみしさとも、向き合わなきゃいけないんだと。

お盆に、娘連れて実家に帰ったんですけど、大勢の従姉妹と、思っいきり遊んで大家族と沢山の兄妹との空気を、存分に楽しんだ娘が、帰りの電車で、ボロボロ泣きだして。

新幹線の切符の確認の車掌さんが、
「バイバイつらかったの?」
「うん(泣)」
「つよくなるんたぞ」
なんて、CMみたいなアドバイス。

ああ、自分が、こんな風に、寂しくて泣いたのっていつだっけな?


ふるさとは、遠きにありて、走るもの...

いつもどおりの準備。

服装をきがえ。

腕時計をはめて。

靴下を履き。

おんがくをじゅんびして。

靴に足をねじこみ。

外へでて。

はしり出す。

いつもと違うのは、そこが、いつもと違う土地。

日常の場所でなく。

かつての日常の場所、土地。

 

走り出すと。いろんな映像が、頭の中でよみがえってくる。

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さびしかった下校、友人と喧嘩してたったひとりでぽつんと帰った時のこと。

学校から脱出する抜け道。

さぼってたむろってた神社の境内。

好きな子と他愛ないお喋りしてた河原。

やたらお腹すかして、やたら買い食いしてたコンビニ。

部活で無理やり走りされてた河川敷の長い長い道路。

などなど。

 

好きな映画監督で、大林 宣彦さんが、仰ってたんですけど、

「地元の尾道で映画を撮っていると、石畳の階段で、町の曲がり角で、

ふと、昔の自分に出会う…」

ひたすらそんな時間を過ごした時でした。

 

頭の中に、昔の記憶がいっきに蘇ってきた、ややバースト気味な

脳味噌の状態でした。

 

( 室生犀星 著 小景異情 )

" ふるさとは遠きにありて思ふもの

  そして悲しくうたふもの

  よしや

  うらぶれて異土の乞食となるとても

  帰るところにあるまじや....."

 

 

なんでしょうか?

今でも説明しきれないんですけど、ほんと、田舎が嫌いで嫌いで、

気づいたら家をでたくでたくて。

着々と学生時代から準備してたんですよ。

別に、都へでて一旗揚げようなんて、野望があった訳では、勿論ないんですけど。

 

「 愛憎半ばする」 なんて言葉聞いたりすると、自分の生まれ育った町に

対する感情に、ぴたっとするぐらいぴたっとくるんです。おそろしいぐらい。

 

昔から地元で暮らしている人にとっては、昔の思い出の場所で、ふと思い出す感情なんて、

きっとなんでもないことかもしれませんが。

 

生きてる時間が、

 

子供時代、幼少期、青年期一部 〈 残り青年期、そっから、今。

 

客観的な時間が、そうなった今では、もう、自分の原型みたいのがカタチづくられた土地を

訪れるというのは、ほんとある種、途轍もない事件でした。あくまで、個人的見解。

 

今でも、記憶がぐるぐる巡ってきて…..

ああ、どうなんだろうな…..

 

まあ、明日も昔過ごした道を走るんですけど。

なんだか、もう、どうなってしまうんだろうな…..。

 

ヒッチコックが、トリュフォーにインタビューを受けて、かつての作品についての

話をしている期間に、記憶を一気に呼び起こして、寝つきが悪くて悪くて.....て愚痴ってて。

 ああ、自分も今晩、そんか感じになるのかなぁ........。

 

トマト&コーヒー そして、ビール。

みなが、言っている美味しさが、わかる瞬間ってありますよね?

 

夏によく思い出すんですけど、自分が5歳くらいのことで、

 

暑い暑い時に、散々遊んで、喉すっごく乾いている時に、いつもの冷蔵庫の

 

麦茶飲まずに、ふと、近所の畑やっている人の差し入れてくれたトマトが、

 

台所のテーブルに積んであるので目に入ったんです。

 

まあ、そん時、大のトマト嫌いで、果肉の見た目の気落ち悪さと、すっぱさと

 

ほんといやで、拒否しつづけていたんですけど。

 

なんでしょね。ふと、「魔が差した」ように、手にとって噛り付いたんです、

 

その瞬間、ほんとにおいしいって思えたんです。なんだ、この感覚は.....

 

5歳の自分にとっては、天地がひっくり返るぐらいの価値観の転換でした。

 

嫌い嫌い嫌い、が、好き好き好き、になる瞬間が、訪れたんでしょね。

 

今思うと、はじまったばかりの世と人の複雑さの深さみたいなものを

 

垣間見たというのは、言い過ぎですかね。

 

 

うちの母親、コーヒー好きで、午後に、コーヒー入れて柿ピーでも食べながら、

 

TVをだらだら見てる風景、よくあったんですが。主婦の黄金時間っていうのかな?

 

横で見てて、美味しそうに、すするコーヒーのこと、理解できなくて、

 

なんであんな気色悪い、黒くて、苦くて、不味いものを、

 

毎日毎日飲んでんだろうって。不思議でしたね。

 

でも、これも、中2頃かな、確か13歳ぐらいですけど。ちょっと、試しに

 

飲んでみたんです。まあ、インスタントですけど。そしたら、そしたら、

 

後は、先の、トマトと「以下同文」って感じなんですけど。

 

 

やっぱり、ビールにもそういうの同様にありましたね。

 

まだ記憶が若い分、きっとみんな「個人的な体験」みたいなビール逸話は、

 

沢山ありそうですけど、TVでどの方かが、

 

「嫌いなビールが好きになった瞬間に、喉越しってものが分かったんです」

 

って語っててなるほどなと思いました。

 

 

カポーティーが、言っていたと思うんですけど、

 

成長というのは、少しづつ進んでいくものじゃあなくて、今の地点から、次のループへ

 

ポンと飛び越えていく。その、飛躍の瞬間が成長と言える...みたいなことだったんです

 

けど。

 

(朧な引用で、個人の解釈入っててますので、若干違っていたら、すいません)

 

こんな小体験で、偉大な作家の引用を語るのも恐縮なんですけど、僕にとっては、

 

成長というと、トマトとコーヒーとビールをなんか、思い出すんです。

 

 

恐縮ついでにもうひとつ。

 

ニーチェの言葉で

 

「深淵を覗く時に、深淵もこちらを覗いているのだ」って超有名なのありますけど、

 

ぼくにとっては、その、

 

トマトを齧った瞬間..

 

コーヒーすすった瞬間...

 

ビールを喉に流し込んだ瞬間...

 

の価値観の転換の起こるブランクな隙間にある、暗闇から

 

じっと、トマトと、コーヒーとビールが、自分を待ってて見てたような気がするってい

 

うのは、確実に、言い過ぎで、誤った引用なんでしょね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はたらくとは?

学生時代の友人の名言で、

 

「いやね、女にフラれた時は、働くしかないでしょ。もう、ひたすらに。」

 

ってのが、ありまして。

 

もう、時間空いちゃうとその子の事考えちゃっていつもでも、ウジウジしてしまうんで。

 

我を、忘れて、はたらく。労働。勤労。アルバイト。

 

なるほどと、感じ入って、自分も失恋した時は、ひたすらアルバイトのシフトきつめにいれてずーっと、働いていたの憶えてます。

 

「 傍(ハタ)を楽にする 」のが、働くの語源だなんて聞くと、ボランティや、最近のNPOの方の取り組みなどを見るにつれて本来の働く事の意味を取り戻しつつあるのかななんて思います。

 

言い過ぎかもしれませんが、いわゆるビジネス的なテクニックみたいなものなんて、

目的と手段の取り違いしてるんじゃあないかとも考えたりします。

 

中上健次さんの小説の「枯木灘」って大好きななんですけど、その一節に、

ほんとに、働くことをこんなに、正確に表現してるのってないなと、いっつも読み返してる部分があって。主人公の秋幸が、土方の仕事してる表現で..

 

” 働き出して日がやっと自分の体を染めるのを秋幸は、感じた。"

 

" 今、働く。今、つるはしで土を掘る。シャベルですくう。つるはしが秋幸は、

   好きだった。シャベルが秋幸だった”

 

” 秋幸は、土方をしながら、その風景に染め上げれられるのが好きだった"

 

                      

 

珠玉ですよね。こういう表現。

繰り返し、違った比喩での表現がいくつもあるのですが、もう、働くことの意味そのものが、文章で結晶化しているようなとてつもない快楽をここ読むと感じます。

 

中上健次氏という、作家が、紀州という土地の、土、血、風景、労働、生、死、あらゆる人の営み、それらの絵の具をたっぷり使い何度も何度も、白い原稿用紙を塗り重ねていく。そんな、感覚を憶えます。

 

 

 

まあ、結局、利益がどうだとか、コストがどうだとか、マーケティングが、どうだとか、言ってても、やっぱり働くってことに、本当に、「入っている」ときは、我を忘れて、何かの為に、何かの役をたとうとしているときなんだなと思います。